「・・・聞きたくないんだよ・・・」

本当に吾郎の言葉を聞きたくなくて、どんな顔で話しているのかすら見たくなくて、寿也は目を閉じる。ただ、どんなに目を閉じても、聞こえない振りをしてみても、近づいてくる気配から逃げる事は出来なかった。

「いいから、聞けよ。寿也」

強く閉じた寿也の目蓋を、優しくなぞるように吾郎の指が触れた。言い聞かせるように耳元で囁かれた言葉を、拒否したくても防ぐ手だてが寿也には何も無い。ただ、流れ込む吾郎の言葉を認識しないように必死で歯を食い縛った。

「頼むから、聞いてくれよ・・・。」
「・・・・・・」

せめてもの抵抗として、返事だけはするものかと俯いて全身に力を込める寿也に吾郎はゆっくりと腕を回す。無意識にその腕に応えそうになった寿也が、寸前で動きを止めても吾郎の腕は弛まなかった。

「寿・・・」

「・・・・・・兄さん。ここ、外」

誰かに見られたらどうするの?やっとの思いで絞り出された寿也の言葉は、咎めるたぐいの物であったのに少しの拘束力も発揮出来なかった。その事に気がついて、寿也は胸の内で自嘲する。それもそうだろう、だってこんな台詞は自分らしくない。咎め立てをするのは、いつだって吾郎の役目だったのに。

「誰も俺たちの事なんて気にしちゃいないぜ」

二人の脇を通り過ぎる車の音は吾郎の言葉を裏付けるように、淀みなくあっという間に遠ざかっていく。

「でも・・・・・・」
「いいから・・・、黙って聞いてくれよ」
「・・・・・・」

無言だがなんの抵抗も見せない寿也を落ち着いたと見たのか、吾郎は端的に結論だけを伝える。


「俺、春になったら海堂を出るから」


予想と全く違う、だがそれ以上に衝撃的な言葉を聞かされて、寿也は堪らず顔を上げて吾郎の瞳を見た。肩に回された吾郎の腕がやけに冷たくて重くて、振りほどきたいのに動くことが出来ない。やっとの思いで吾郎の腕を握りしめた手は、軽く汗ばんだ生地に弱々しい皺を作っただけだった。

「な・・・にを・・・」

「海堂やめる。出来れば家も出る」

簡潔に、だが疑いようもなく揺るぎの無い固さを含んだ吾郎の言葉が寿也を打ちのめした。

「何・・・言ってるんだよ!兄さんは自分が何を言ってるか判ってるのかよ!?」

「判ってるさ、おやじ達にはもう話したし」

「なんだよ・・・、それ・・・」

自分を囲む世界が、足下から崩壊する。
さっきまで暖かく感じていた風も、柔らかく波打っていた海も、今の寿也には何も感じられいし視界にも入らなかった。これ以上何も聞きたくなくて、握りしめていた拳で耳を塞ぐ。

「寿・・・」
「・・・・・・嫌だ」
「最後まで、話を聞けよ」
「だから、聞きたくな・・・」

強引に手を取られて、寿也が抗議する間もなく吾郎の声が飛び込んできた。

「俺について来いよ!!」

「・・・え、・・・兄さん?」

ぼんやりと見返してしまった兄の顔が奇妙に歪んで見える。そんな寿也に溜め息を一つ漏らして、吾郎は話しを続けた。

「俺は家も海堂も出るけど、お前と別れるなんて一言も言ってねぇぜ」
「ああ・・・」

滲みそうになった涙を吾郎は気づいたのだろうか、固い指先が些か乱暴な仕草で寿也の目尻をこすった。寿也が小さな声で『痛い』と呟けば、焦ったように吾郎の手は離れる。
そうして、やっと吾郎の顔をまともに見る事が出来た寿也は、自分以上に安堵した吾郎の様子に気がついた。

「全く・・・、早とちりすんなよ」

「兄さんこそ・・・、泣きそうだったんじゃないの?」

目の端が赤いよ。と指摘すれば、今度は耳まで赤く染まった吾郎の表情に、寿也にも自然と人の悪い笑みが浮かぶ。その表情を見咎めたためか、吾郎の発言も若干の毒を含んだ物になる。寿也のそれに比べれば、断然に可愛らしい物だったけれど。

「・・・寿こそ、泣いてたくせに・・・」
「はい?」
「・・・ちっ」
「何?」

(恨めしそうに呟かれた言葉も、あまりに甘く響くから『今日は大目にみてあげよう』と寿也が心の中で思っている事なんて吾郎は知らない。)

「なんでもねぇよ・・・」

ああ、もうまた形勢逆転かよ!とこっそり呻いた吾郎だが、おおっぴらにそれを口にするのは悔しすぎた。
なんだって自分は、こうも弟(寿也)に甘いのだろう。甘い、甘過ぎる、絶対に甘過ぎる!!こんな事では舐められる一方だ!!だが結局、どんなに心の中で叫んでも毎回、後の祭りなのである。

「・・・うん、でも」

「でも?なんだよ、寿也」

自分の学習能力の低さを棚に上げて、もうちょっとイニシアチブを握っていたかったなぁ、等と今更な事に思いを巡らしていた吾郎に、今度は寿也が真っ直ぐに視線を合わせて答えを出してきた。

「僕は、海堂を出ないよ」

「はぁ!?」
「このまま海堂にいて、兄さんと試合する」
「寿也・・・、お前」
「僕の考えは兄さんと違うし、中途半端は嫌だからね。」
「そうか・・・」

きっぱりと言い切った弟の瞳に決して揺るがない物を見て、吾郎は自分の口元が微かに弛むのを感じた。寿也がこの答えを出す事を自分はどこかで判っていたのかもしれない。いや、“判っている”というよりも“期待していた”のだろう。

「でも、卒業したら家を出るよ。そして、その時は・・・兄さん」
「ああ・・・、その時は一緒だな」
「一緒に・・・」
「ああ、一緒にいよう」

どちらから言うでもなく二人は、少し身体を離して、それからゆっくりと手を繋いだ。
ガードレールの向こうに広がる青い海を見つめながら、繋いだ手に力を込める。



『一緒にいよう』



今だけは手を離すけど、遠くないいつか、また必ず繋ぐから。

そうしたら、また海を見に行こう。

二人で手を繋いで―――






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