彼は今、目の前の書類に眼を通していた。
特に変わった仕事をしている訳ではない。いつも通りの業務だ。
時折眼鏡の鼻の部分を指で押さえるのは、下を向いているためにずれたからというよりも、仕草そのものが彼のクセになっているからだ。

いつもと変わらない時間。あまりにいつもと変わらないから、彼は気がつかなかった。
自分を見つめている人物がいる事に。


『うさぎ』
名前変換as江頭哲文



さわりとカーテンが揺れて、部屋の空気に微かに柑橘系の香りが流れる。
「・・・・・・?」
その事に気をとられたのは、鼻孔をくすぐる香りに覚えがあったからだ。確信に近い予想をもって振り返ろうとすると、柔らかい仕草で、細く白い指が江頭の両目を塞いだ。
「・・・誰かね、君は?」
こんな所で何をしている?わざと解らない振りをして尋ねてみても。視界を遮る幕は動く気配を見せなかった。
「私に、誰だか当てろというのか?」
軽い溜め息をつきながら、目蓋の上の手に指を這わせる。なぞった中指に、覚えのある硬質の感触。植物が絡み合ったような繊細な作りは、自分が贈ったものだ。薬指に嵌めるのは拒否されたが常に身につけている事は知っている。

「・・・

囁いた言葉は、きっと彼女の耳朶に甘く染みているだろう。動揺したように離れようとした指先を、逃がさないように握り込んだ。

、返事はしないのか?」
今日は随分と行儀が悪いな。口角をあげて、捉まえた指先に口づけを贈る。指先の主はびくりと震えたが、やがて諦めたように彼の名前を呼んだ。

「哲文・・・。悪かった、頼むからもう離してくれ」

ようやく解放された両眼で振り返れば、そこにはが立っていた。


□□□


窓枠にもたれるようには立っている。僅かに開けられた隙間から風が入って、肩まで真っ直ぐに伸ばされた彼女の黒い髪を揺らす。



「仕事、まだ終わらないのか?」

言葉使いは“たおやか”とは言い難いが、澄んで響く少女独特の声

今時の女子高生の基準からすれば、のスカートの丈は些か長めなのかもしれない。その下から覗く綺麗な形の膝とすんなりした足は、紺色のハイソックスに包まれて変哲もない指定の上履きに吸い込まれている。彼女が履いているというだけで、ただの上履きが専用にあつらえた物のように見えるのは、所謂『色眼鏡』というヤツだろう。
そして、華奢というより薄い上半身の上には、小さく丁寧に作り込まれたような顔が載っていた。
どこか冷たい印象を与える位整っている顔は、ごく稀に照れたり、綻んだり、涙を零したりするが、その全てを知っているのは江頭だけだ。

「もう少しで終わる。良い子だから待っていなさい」

「・・・・・・」

「たまには、こうやって仕事をするのも悪くないですね」
君が見つめていてくれるから。

「見つめてるって!?俺はただ・・・」
見ているだけだ。消えかけた語尾の代わりに、小さく白い耳の端が朱く染まる。隠すつもりもない笑みが浮かんだのを、不機嫌そうに寄せられたの柳眉が非難していた。

「『俺』じゃなくて『私』でしょう。まぁ、そういう所もらしくて良いのかもしれないですが」
反論を封じる台詞なんて、いくらでも簡単に用意出来る。所詮、彼女は自分の檻の中に飼われているウサギなのだ。

「・・・なんでも」
「なんですか?」
「なんでも解ったような顔をするな」

―――。そんな風に眦が少し上がって赤みを帯びるのが、一番自分を美しく魅せるなんて気づいてもいないだろう。
そう心の中で呟いてみたが、それと同時に自嘲気味な笑みが浮かぶのも止められない。
“怒り”が彼女を一番美しく装わせる要素なのは解っているが、こんな風に彼女を挑発するなんて、ひどく子供じみている。

「そうさせるだけの価値が、貴女には充分あるんですけどね・・・」

「お前・・・おかしいぞ・・・。絶対に、おかしい!!」

風に嬲られる長い髪に、指を絡めて抱き寄せる。

「私が“おかしい”としたら、誰のせいだと思うんです?」

「哲文・・・・・・」

呟きは、吸い込まれるように二人の間に消えて。手のひらで滑らかな感触を楽しみながら、江頭は笑っていた。


可愛いウサギ。可愛い。飛び跳ねて、私の手の中からすり抜けようなんて愚かな事を考えないで欲しい。

君にとって、こんなに居心地の良い檻は無いし。
私より上手な飼い主など、何処にもいないのだから。