例えばこんな一日
【Act.1 茂野吾郎の驚愕】
夢のような、嘘みたいな、
―――例えばこんな一日。
【Act.1 茂野吾郎の驚愕】
目覚めた途端の違和感というものは、気持ちが良い物ではない。
「・・・ん、寒っ・・・あ?寿・・・?」
ぶるりと身体が震えて吾郎は目を覚ました。なんだか隣がやけに寒いと思ったら、寿也の姿が何処にもない。
「なんだよ、あいつ・・・。自分だけ先に起きやがって・・・」
部屋の温度が低かったのか、乾燥した空気のせいなのか喉が少しひりついて声の調子もおかしい。あー、とか、うー、とか声を出してみたが簡単には治らないようだ。
―――そういや、寿のヤツのど飴とか持ってなかったっけ。
同室になって約一年。勝手しったるナントカで寿也の私物の内容を吾郎はだいたい把握していた。
(もちろんこれは寿也にも言える事である。もっとも、寿也のそれは吾郎を遙かに凌駕しているのだが、まぁそれは別の話という事で割愛)
あー、何処だったけな・・・。等と独り言を言いながらベッドを降りて机の引き出しを開けようとした時、目覚めの時に感じた違和感が再び吾郎の中で急速に膨れあがった。
「俺のベットカバー、いつ、・・・こんな色になった?」
違和感の原因はこれだったのか、と改めて自分が今まで寝ていた場所を見つめ直す。
昨日までは濃いブルーの無地だったカバー、ちなみに枕もお揃いだ。が目にも優しいパステルカラーのお花畑になっている。断じて自分で替えた記憶の無い吾郎の脳裏には、当然の流れとして世話焼き恋女房の姿が浮かんでいる。
―――確かに、洗濯しろ、洗濯しろって言われてたけどよ・・・。いくらなんでも俺が寝ている間に勝手に替える必要があんのかよ!?
まぁ、これだけハードな野球生活を送っている高校男子の布団&リネン類なのだから洗濯はマメにするにこした事はない。それは吾郎も良く判っている。一日の終わりを気持ち良く過ごすためにもベッドを『清潔』に保つ事は非常に重要だ。
だが、やはりそこは個々人の性格というもので、野球以外に関しては限り無く生活スキルの低い吾郎にとって洗濯なんて二の次、三の次、四の次くらいなのである。
「ち、くしょー!!」
なんで朝からこんな目にあわなきゃならないんだ、と吾郎は腹立たしげにお花畑を引っぺがした。後で絶対に文句を言ってやると息巻いて、勢いよくそれを放り投げる。憐れ、お花畑はくったりと部屋の隅で丸まってしまった。
それを眺めて、ふん、と一息ついた吾郎は、この時になってようやく2段ベットの上でごそごそと動く人の気配に気がついた。
「あ・・・、おい!寿、お前部屋にいたのかよ!?俺のベッドカバーどこやったんだよ!?」
灯台もと暗しというか。恐ろしい事に二人で一緒に寝る事がほぼ習慣になってしまっていた吾郎には、寿也の存在を探す時に、まず本人のベッドを確認するという発想が欠如していたらしい。するするとはしごを昇って、吾郎はベッドを覗き込んだ。しかし頭まで毛布をかぶった寿也は、なかなか顔を出そうとしない。
「おい、寿也!」
なかなか起きようとしない寿也に苛立った吾郎は、些か乱暴な仕草で毛布の塊を揺すった。
「おい、起きろって!!」
「五月蠅い!!」
「う、わああああっ!!」
ドタン、バタン、ごろん、と絵に描いたかのように吾郎の身体がはしごから転げ落ちる。かろうじて怪我をしなかったのは、卓越した反射神経の賜物だ。即座に床から跳ね起きるようにして立ち上がると、自分をこんな目に合わせた張本人に怒鳴りつけた。
「あ、危ねぇだろ!!う、・・・五月蠅いってなん・・・・・・!?」
しかしその顔を見上げて、吾郎は怒鳴りかけた文句を最後まで言い切る事が出来なかった。
ベッドの上の人物が、うーっ、と唸り声を上げて床の上に転がった吾郎を睨み付けていたからではない。その人物が吾郎の予想と全く違ったからである。
「や、薬師・・・じ?」
なんで、と小さく呟いた言葉に薬師寺がぴくんと反応した。はっと何かに気がついたような顔になり、その後吾郎がかつて見たことが無いほど目が見開かれた。
―――へぇ、あいつ目を全開にするとあんな顔になんだなぁ。
まぁ、どれだけ開いてみた所で三白眼には変わらないのだが、珍しい物を見ると人は得をした気分になるもんである。こうして、事の顛末は良く判らないがなんだか機嫌の良くなってきた吾郎に対して、薬師寺は先程までの不機嫌さが嘘のように慌てふためいた様子でベッドから駆け下りてきた。
「わ、悪かった!!だ、だ、だ大丈夫か!?怪我とか無いか!?」
「あー、たぶん、どこも痛くないから・・・」
「本当か!?本当に大丈夫なんだな!?」
クールが特許のサードの、滅多に見られないような慌てっぷりに、すでに萎え気味だった吾郎の怒りは更に小さく萎んでしまう。こんな風に『まったくもって、朝から色んな事がある日だぜ。』と、思わず他人事のように思考を飛ばした吾郎だったが、何故寿也のベッドに彼が寝ていたかという基本的な所は失念していた。
そして、それよりも次に薬師寺の口から飛び出した言葉で、吾郎は今度こそ開いた口が塞がらなくなってしまったのである。
「眉村!本当に大丈夫なのか!?」
「・・・眉村?て、あいつがどうだって言うんだ?」
「・・・・・・おい、何を・・・言ってる?」
「え、はぁ?・・・だから眉村って」
と言いかけた所で、吾郎は薬師寺の視線があまりにも真っ直ぐ自分に向けられているのに気がついた。そしてなんだか見たいわけでは無かったのだが、薬師寺の瞳に映っている、困ったように首をかしげた人物をうっかり見てしまったのだ。
―――あれ、いや、嘘だろ、おい!?
もし、これが現実だとするならば・・・
「・・・それって、ひょっとして俺の事?」
ちょっと小首をかしげて可愛らしく(?)己を指さしてみたのは単なる出来心だったが、薬師寺の顔からざあっと音を立てるように血の気が引いていく。それと一緒にがっちりと掴まれた吾郎の肩に更なる圧力が加わって悲鳴をあげる寸前なのだが、すっかり血の気の引いた薬師寺はそんな事にさえ気づかないようだ。
「い、医務室行こう!いや、病院だ、病院に行くぞ!!」
監督にも連絡をしなくては!と言う薬師寺に『そ、そんな大事にしなくても・・・』と言いかけたが、冗談を言っているとは思えない真剣な目に思わず息をんだ。黙り込んでしまったのを了解したとみたのか、薬師寺は吾郎の手を強引にとって立ち上がらせるとそのまま部屋を出ようする。本当に本気で病院に行くつもりらしい。
「ちょ、ちょっと、ちょっと、ちょっと、待てって!!」
落ち着けよ、薬師寺!と取られた腕を引いたところ、ぐるりと振り向けられた眼に背筋が凍り付く。
「何だ?」
―――うわぁ、その眼どっかの誰かさんにそっくり。
「えっと・・・え、っとだな」
こんな嫌な共通点見つけたくなかったけど。見ちゃったもんは、そんなに簡単には忘れられない。
迫力では若干、恋女房の方が上回るかもしれないが、元来の目付きの点から言えば薬師寺も負けていない。むしろストレートに『怖い』。何がって、顔そのものが。
しかもどんなに勉強は出来ない頭でも、これだけ強烈な代物は一瞬でばっちりと記憶中枢に擦り込まれるらしい。こんな事テストに出るわけ無いのに大層無駄な事だ。まったくもって貴重な脳細胞の無駄遣い。
それでも吾郎は、とりあえず保健室やら病院を回避しておきたかった。なにせ、さっき気がついたのだが朝の食堂が閉まるまで後15分しか残っていない。これは実に由々しき問題なのだ。
「だ、だからな、身体はなんともないんだ!」
「・・・・・・本当か?」
「そ、そんな事嘘ついても仕方ねぇだろ」
「・・・・・・」
―――いかにも『疑ってます』という目付きだけど、薬師寺の目でそれをやられると“当社比3倍です!”って感じだな。
ちょっとじゃなく失礼な事を考えながら、それでも吾郎は頑張った。
だって、(今の状況は充分過ぎる程問題なのだが)腹が減っては戦にならない。目下のところの最優先事項は空っぽの胃袋を満たす事なのだ。腹がくちくなれば名案くらい浮かぶかもしれない。
「ほら、見ろよ!ぴんぴんしてるだろ!」
「・・・・・・判った」
あくまで問題が無いと主張する吾郎に、ようやく薬師寺も渋々といった調子で頷いた。得に外傷も無いのだから当然といえばそうなのだが、意外な位に過保護な辺りも吾郎に誰かさんを思い出させた。
それだからという訳ではないのかもしれないが、少しばかり気のゆるんだ吾郎はぽつりと漏らしてしまったのだ。
「まぁ、問題ねぇ事も無いんだけどな・・・・・・」
「・・・・・!!」
案の定、薬師寺の顔が再び強張った。油の切れた機械の様にギシギシと、吾郎に顔を向けてくるのは、平素ならちょっとした見物だったかもしれない。
「実はさ・・・・・・」
「は、早く言え!」
―――まぁ、言ったところで絶対に信じねぇだろうな。
自分だってまだ信じられないのだ。他人が素直に信じる訳がない。その点においては吾郎の考えも正しいと言えるのだが、目の前の人物に対してその台詞が今世紀最大の衝撃をもたらす事までは思い至らなかった。
「俺って、『茂野吾郎』なんだ」
「・・・・・・」
「おーい、おーい、薬師寺?」
「・・・・・・くぞ・・・」
「は?」
「やっぱり、病院行くぞ!!」
こうして今度こそ部屋から引きずり出されそうになりながら、吾郎は朝目覚めてからの一切を薬師寺に説明するはめになったのである。朝食を食べ損ねたのは言うまでもない。