例えばこんな一日
【薬師寺の憂鬱】
今日の寝覚めは最悪だった。
自分の寝起きはそう悪い方では無いと思うのだが、それでも朝のゆったりとした微睡みの時間を邪魔されるのは良い気分ではない。
しかし、本当に反射的に振り払ってしまった相手が床に座り込んでいるのを見た時は、眠気なんてどこかに吹っ飛んでしまった。それからの俺は自分のしでかした事の大きさで呆然とする暇さえ無かった。しかも当の眉村に怪我が無い事を確認してほっとするのも束の間、新たな、そしてより困難な問題に直面する事になってしまったのだ。
「・・・全く、なんだって言うんだ」
さっき聞かされた台詞が頭の中をリフレインする。いっそ夢であって欲しいと願いつつも、目が覚める気配は一向に無かった。それにしても・・・・・・
―――【眉村】の中身が【茂野】だなんて、冗談にしてもタチが悪すぎる。
【薬師寺の憂鬱】
「なあ、本当に信じてくれたのかよ?」
椅子の回転軸が体重を掛けられて、キュッ、と小さく悲鳴をあげる。どこか所在なげな表情を浮かべているのは同室の眉村だ。もっとも本人曰く中身は『茂野吾郎』らしいのだが。
「ああ・・・・・・」
“信じろ”と言われて“はい、そうですか”と言える程、単純な性格のつもりは無いけれど、目の前にいるヤツを『眉村』だと言い切る事も俺は出来なかった。だが、言動や行動が眉村らしく無くても、外見は何処からどう見ても『眉村』でしかありえない。問題はそこなのだろう。
「あー、腹減ったなー」
「おい・・・・・・」
「なんだよ?」
「眉村の顔で、そんなアホ面するな」
眉村の名誉のために言わせてもらうが、アイツは断じてそんな気の抜けた顔はしない。どちらかと言えば表情が出にくいタイプではあるが、その事で日常生活に支障をきたした事はない。むしろ、今みたいな顔を外で晒された方が(そして、それに対する周囲の反応が)恐ろしい。
「だって、薬師寺があんな大騒ぎするから朝飯喰い損ねたんだろ」
いかにもお前のせいだと不服気な視線が突き刺さる。腹が減っているのはお互い様なのだが、この状態の『眉村』を野放しにするのは正直気が引けた。引けたというより、出来なかったという方が合っているかもしれないが。
「全く・・・、お前は口を開けば、飯の事か・・・」
実は、今朝の一悶着の後、俺達はまだ部屋の中にいる。正しくは出る事が出来なかったのだ。通常だったら『茂野』がどこで何を叫ぼうと何を喰おうと、それは俺の管轄外なのだが(ハッキリ言えば佐藤の担当だ)今の身体でそれをやられては堪らない。周りの奴らは誰もこいつが『茂野』だなんて思わないだろう。従って、こいつが何か騒ぎを起こせばそれは『眉村』の評価を落とす事になる。結局、熟考を重ねた末でも結論は変わらなかった。何らかの対処法が見つかるまでは、こいつを部屋の外に出す訳にはいかない。
「俺が購買で何か買ってくるから、それまで大人しく部屋にいろ」
「マジで!?薬師寺のおごりか!?」
「誰が“奢る”と言った?後できちんと払ってもらうからな」
妥協案として朝飯を買ってきてやる事にしたが、もちろん『茂野』の財布から払えよ、と言うと。途端に「えーっ!」と不満そうに口を尖らせる『眉村』!
「だから、その顔もやめろ!!」
なんだ、これは!?見ているだけで目眩がしそうだ。しかし俺が気を取り直した時、すでに『眉村』は購買で買ってくる物のリストを作り始めていた。
「パンはやっぱり焼きそばだろ〜。あ、2個は買ってきてくれよ。あと卵サンド。それと牛乳も忘れないで頼む。後はこの本を・・・」
「眉村はそんな雑誌は読まない。アイツが読むのは別のヤツだ」
「だから、俺は『眉村』じゃねぇって!『茂野』だって言ってんだろ!」
何聞いてやがったんだよ!と椅子から丸めたメモが投げつけられる。感心な事に、紙玉は狙いを外す事も無く綺、麗な弧を描いて俺の手の中にきちんと収まった。流石、中身が変わっても投手という事なのか(でも『眉村』も投手なんだけど)、腕が鈍った訳ではないらしい。
「いい加減判れよ!!このへぼサード!」
「・・・・・・お前」
このあまりにも非日常的は自体に苛つくのは判る(俺もそうだ)。だが、だがな、これだけは言わせろ―――
「『眉村』の顔で唾を飛ばすな!」
「そんなの俺の勝手だ・・・っ!・・・ぐっ!?」
「欲しい物全部買って来てやるから黙れ!」
吠える『眉村』に手近にあったタオルを投げつける。ああ、確かに言う通りだ、こいつは『眉村』じゃない『茂野』だ。こいつが『眉村』だなんてある訳がない。
憤懣やるかたなしとこっちを睨み付けているのをとりあえず流して、投げられたメモはズボンの尻に突っ込んでおく。昼までまだ時間はあるからこれ位の量なら買いはぐれは無いだろう。そして、一息つくと最も肝心な事を告げることにした。
「それと、部屋からは一歩も出るなよ!」
「えーっ!なんでだよ!!」
当然の事というか、『茂野』はまたもや不満たらたらのご様子だ。だが、この際そんな不満は聞いていられない。
「いいから絶対に出るな!」
「それじゃあ、小便もいけねぇじゃないかよ」
「・・・我慢しろ」
「うわ!ひでぇ。・・・でも、この身体『眉村』のだろ、あんまり我慢したら」
「わ、判った・・・。じゃあ、トイレの時は例外にしてやる」
でも、誰とも口をきくな絶対にだ!と改めて念を押す。自分でも相当ヒドイ事を言っている自覚が無い訳でもなかったが、初めてが肝心なのは犬の躾けと馬鹿の躾けの共通事項。
「横暴!鬼!」
「なんとでも言え、『眉村』の名誉のためだからな」
「・・・・・・ちっ」
「・・・なんだ?今の“ちっ”は?」
ひょっとし、こいつ『眉村』の身体で何かしようと企んでいたんじゃないのか!?ありえる、こいつが『茂野』だとしたら絶対にあり得る事だ。何をしでかそうとしていたかは判らないが、これは更に念入りに釘を刺しておかないと危険な状況と俺は判断した。
「その身体で何か問題起こしてみろ・・・・・・」
『夢島に逆戻りさせてやる。(それ以上も有りだからな!)』言外に込めた部分もどうやら無事に伝わった様だ。心なしか俺を見る目が怯えていて、何故か胸のどこかがちくりと痛んだ。眉村の顔だからかもしれない。だが、俺はちっぽけな感傷になど流されてはいられない。これも眉村を守るために必要な事なのだ。
「・・・判った。部屋からは出ない。約束する」
俺が決して譲らないと判ったのだろうか、『茂野』は大きな溜め息をつくと椅子に深く座り直した。それを見て、俺は心の中で安堵しつつ表面は鷹揚に頷いて見せる。なんとか最悪のシナリオは回避出来そうだ。
「まったく何でこんな事になったんだよ。不便で仕方ないぜ〜」
そんな俺の内心の苦労をまるで知らないかの様に(本当に気づいてないのだろうけれど)、「なんとかなんないのかよ、薬師寺―?」と縋るような目で見つめられても、ちっとも嬉しくなんかない。中身が違うという事は、こうも外見に影響を及ぼす物なのだろうか。会話するだけで体力を消耗するというのも初体験なのだから、頼むからこれ以上は要求しないでもらいたい。
「なぁ、なんとか元に戻れないのかよ?」
薬師寺は何か知らねぇの?なんて聞かれても困る。むしろ、そんな方法があるならば俺が知りたい助けて欲しい。ポジションを譲るって訳にはいかないが、今度の練習試合で打席の一つはくれてやるから。
「じゃあ、行ってくるからな・・・」
「よろしく頼んだぜ〜!薬師寺くん!」
「・・・・・・ああ」
こんな時だけ“くん”を付けるな気持ち悪いとか、本当に部屋で大人しくしているかまだ不安だとか、諸々の感情を飲み込んで俺は購買に向かった。どう考えても、今日は厄日だ。
眉村の顔をした別人の声援を受けて購買に行く道すがら、俺は心の中で叫ばずにはいられなかった。
―――もう誰でも良いから、どうでも良いから、早く『眉村』を返してくれ!!
と。