例えばこんな一日
【佐藤寿也の嘆き】
吾郎くんが変だ。
いつものように爽やかな朝を迎えて、いつものように傍らの可愛い寝顔を堪能しようと思ったのに、目が覚めたら腕の中はもぬけの殻だった。
「吾郎くーん」
ベッドの下段を覗いても姿が見えない。吊してあったジャージが無かったからロードワークに行ったみたいだけど、僕も誘わないで一人で出掛けるなんて滅多にない。
―――僕、吾郎くんの機嫌を損ねるような事やったっけ?
昨晩の事を思い返しても、思い当たる様な事は何もなかった。そりゃ、昨日も散々焦らせて泣かせたりっしちゃったけど、結局は吾郎くんだって喜んでたし。恨まれるような覚えは無いんだよね・・・。でも、ちょっと無理させちゃったかな?
そんな風に色々考えてみたけれど、やっぱり決定的な原因は考えつかない。こうなったら本人に直接聞くしかないだろうな、と思い始めた時。タイミング良く吾郎くんが帰って来た。
「あ、吾郎くん!一人で走って来たの?」
「・・・・・・ああ」
「いつの間にかいなくなってたから、びっくりしたよ」
「・・・・・・そうか」
「やっぱり、怒ってる?」
「・・・怒るって、何に対してだ?」
どうやら言葉数が少ないのは怒っている為ではないみたいだ。その証拠に、きょとんとした表情で僕を見る吾郎くんに、無理をしている様子は全くない。本当に質問の意味が解らない様だった。
―――本当に怒ってないの・・・かな?
僕からの返答が無いのを気にした様子も無く、彼は額を流れる汗をタオルで拭うと無造作な仕草で肩にかける。一連の動きは他愛ないものだけど、流れる様に綺麗だった。ただ、なんて言えばいいのだろう、何かが引っかかる。
「・・・・・・?」
ふいに感じた違和感は、じわじわと僕の全身を浸食していった。
―――何だろう?いったい吾郎くんの何処が不自然だっていうんだ?
自分でも訳が判らない。必死になって違和感の源を探そうと、吾郎くんの背中をじっと見つめてしまう。
―――ウィンブレを脱いで壁に掛ける、脱いだ靴下をランドリーケースに入れる、備え付けの小型冷蔵庫を開けて中に入っていたミネラルウォーターを取り出・・・す。
「あああああ!」
「・・・何だ?」
思わずあげてしまった大声に対して驚いた様子も見せないで、彼は顔だけをこっちに向けた。いつもと変わらない吾郎くんの顔だ。
―――でも、違う!違う!!これは吾郎くんじゃない!!
冷静になろうと、ゆっくりと深呼吸をした。吐く息と共に混乱した気分が少しでも流れ出すように。そうして一息つくと、落ち着きとともに自分の腹の底から怒りにも似た感情が湧いてくるのが判った。
「・・・君は、誰だ?」
普段より低い声が出たのは、特に意識した結果じゃない。
「本物の吾郎くんはどこだ?」
―――吾郎くんは脱いだ服を丁寧にかけたりしない。靴下だっていつも脱ぎっぱなしだ。冷蔵庫の中の物は、他人の物だって気にしない。僕の名前が書いてあったプリンだってこの前食べられた。
たぶん他人が見たら彼の行動におかしな所は何一つ見つけられなかっただろう。でも『吾郎くん』だと思って見れば、今僕の目の前にいるのは全くの別人だ。
「吾郎くんは、どこにいる?」
【佐藤寿也の嘆き】
ふうっ、と大きな溜め息が聞こえた。部屋にはもちろん僕と彼しかいない訳だから、溜め息の主は決まっている。僕じゃないなら、『彼』だ。
「・・・なんで判った?」
「なめられたもんだね・・・」
僕が『吾郎くん』を判らない訳が無い。苛立ちは、今やはっきりと怒りに変化しようとしていた。だってそうじゃないか、『吾郎くん』の代わりなんて誰もなれるはずが無い。顔だけ同じ偽物なんて反吐がでる。
「・・・別に、お前の事を馬鹿にしていた訳じゃない。佐藤」
「・・・・・・は?」
「俺にもどうしてこうなったのか良く判らないのだからな」
「・・・・・・」
「自分だと、どうも上手く説明出来ない」
「・・・え、あ、・・・えーと?」
なんだか、目の前の喋り方には聞き覚えがあった。声はあくまで吾郎くんの声なんだけど、言葉遣いとか微妙な発音とかは、吾郎くんではない。でも僕は彼を知っている、それもかなり近い相手として。
「もっと早くに相談しようとも思ったが、俺としても混乱していて・・・」
―――この喋り方・・・、聞き覚えがあるって事は、たぶん野球部なんだよな・・・。
「おい・・・」
―――米倉・・・ではないな。渡嘉敷か・・・?いやあんなに幼くはないし・・・。三宅・・・違う、全然違う。この喋り方はあんななまってないし・・・。
「おい!聞いているのか、佐藤!?」
「あ、・・・ああ、ごめん、眉村」
「・・・・・・なんだ?」
「え、え、ま、ま、眉村っ!?」
「・・・お前が呼んだんだろ」
「いや、反射的っていうか、つい呼んじゃったんだけど・・・」
本当に眉村なの?はずみで飛び出した名前が、まさか正解だなんて普通は思ってもみないだろう。でも、どうやらこれが真実らしい。だって、目の前で憮然とした表情ながらも彼はしっかりと頷いたのだから。
「ああ、その通りだ」
―――やっぱり昨日、色々やりすぎちゃたのかな・・・・・・。
□□□
「でもさ、なんでおかしいと思ったのなら、その時点で相談してくれなかったのさ」
「理由はさっき言っただろう」
「眉村も“混乱”してたからって事だろ」
「そうだが・・・、何か問題でもあるのか?」
「いや、その割にロードワークとか行ってるし、今だって結構落ち着いてる気がするんだけど」
「これは茂野の身体だからな。いくら中身が俺とはいえ、なまらせるのは気持ちの良いもんじゃない」
「そっか・・・」
どんな時でも野球を第一に考えてしまう性格は、吾郎くんと彼に共通していると思う。ありがとう、と小さく礼を言うと何でもないというように軽く横に首を振られた。そうして眉村は、飲みかけのペットボトルの蓋をきちんと閉めて冷蔵庫にしまう。もちろん冷蔵庫の扉を開け放しにするような事もなくて、そんな所でまた吾郎くんとの違いを認識させられた。
「・・・それとな」
閉じられた扉をしばし見つめながら、眉村が振り返った。一瞬、何か躊躇する様な表情が浮かんだのは気のせいだろうか。歯切れの悪い口調は彼らしくない。なかなか本題に入らないのを、促すように首をかしげてみせた。
「何、眉村?」
「・・・お前」
眉間に深いシワが寄る辺りが、確かに眉村らしい。けれども、せっかく話しやすいようにしてあげたつもりだったのに、彼は溜め息を一つ漏らして黙り込んだままだった。
「何?」
仕方がないので質問を繰り返してみる。
「・・・ほどほどにしておけよ」
「は・・・・・・?」
今度は答えが返って来た。聞き取りにくくなる一歩手前の声だったけど意味は合っている・・・と、思う。ただ、何を指して忠告されたかが全く判らなかった。
「え・・・と・・・?」
「・・・・・・」
気まずげな目線が妙に刺さる気がする。不安げな色が見え隠れする瞳だとか、ほんのりと染まりかけた耳たぶだとか。普段の吾郎くんの仕草だったら瞬殺ものなんだけど、中身が眉村だと思うと流石に手を伸ばす気にはなれない。とりあえず今は疑問を解消する事を優先しよう。
「な、何か聞いていいかな?」
「・・・・・・」
『それを俺に聞くのか!?』と無言で責められている気がするのは気のせいだろうか?嫌な感じの汗が背中にじわりと浮かんでくる。なんだろう、この嫌な雰囲気は。それでも沈黙に耐えきれなかったのは眉村の方が先だった。
「見ろ・・・」
シャツの襟元を指で引っかけて、ぐいっと広げる。綺麗に焼けた肌と張り詰めた筋肉に目を奪われたが、それだけだったら見慣れたものなんだけど・・・。と、ある一点で目が止まる。
「あ・・・、えーと・・・」
「・・・・・・」
苦虫を噛み潰した顔とでも言うんだろうか、眉間に深く刻まれたシワが目に痛い。
「・・・・・・ほどほどにしておけ・・・」
くっきりと刻み込まれた朱い痕を目の前にしては、どんな言い訳も役に立たない事は明白だ。
「・・・ほどほどにします」
しかも「腰も痛くて起きるのに苦労した」とまで付け加えられたら、もう何も返す言葉が無い。
吾郎くんの中に眉村。信じられない様な事が起こった朝。謎を解く前に、僕がした事は、とりあえず誤り倒しておく事だった。